ちくしょう四時じゃねーの

曜日時間感覚を失った者の日記

世間

ブログを書くにあたり、自分の執着をまとめて見る。

大人になり学習障害ADHDと診断され、幼い頃より「空気」読めないと言われてきた。
今ではサラリーマンになり、それなりのコミュニケーションが出来るようになったが、生き辛いのは変らなかった。
故に「空気」の正体を知りたくなり書籍を漁り始めたのが、最初の出来事だ。

自分が先に辿り着いたのは、山本七平の「空気の研究」だ。
これは太平洋戦争において、空気を読み続けた結果「敗戦」したと言う研究だ。

’’「全般の空気よりして、当時も今日も大和の特攻出撃は当然と思う(小沢治三中将)」と言う発言が出てくる。


この文章を読んでみると、大和出撃を無謀とする人びとはすべて、
それを無謀と断ずるに至る細かいデーター、すなわち明確な根拠がある。
だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、
その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。'' (山本七平「空気の研究」より)

これは、空気の作用を知るに至ったが、根本には至らず。
鴻上尚史著 「空気」と「世間」により、すべてを知る事となった。

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)


山本七平は、「空気」を研究した。
阿部謹也は、「世間」を研究した。

鴻上尚史は、 両氏の研究をまとめ「世間」が壊れたものが「空気」と論じた。

自分は、「空気」の正体のみ知ろうとした為に、 鴻上尚史なくしては、
本質たる 「世間」 阿部謹也にたどり着けなかったのである。

欧米人が「神」の事を、論理的に語れないのと同様に
日本人が「世間」の事を知らない人間がいないにも関わらず
どういったものか語れないところから始まったようだ。

以下は引用である。

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''明治にsocietyの訳語として、「社会」と言う言葉が作られたが定着せず
人々は相変わらず、「世間」と言う言葉を使い続けた。
建前としての「社会」と本音としての「世間」が生まれた。
(「社会体が悪い」と言う言い方ではなく「世間体が悪い」と言う言い方)
「世間」と「社会」の違いは、「世間」が日本人にとって変えられないものとされ所与とされている点。

阿部氏の書籍に、「世間」と「社会」と「個人」について書かれている。
日本の「個人」は、「世間」の中に生きる個人であって、西洋的な「個人」などは存在しない。
そして、独立した「個人」が構成する「社会」など日本にはない。

たまに耳にする「それは理屈だ」と言う言葉は、このことを象徴している。
英語には翻訳不可能
理屈にあっているのなら、なんの問題もないのですから
「それは理屈だ」と言うのは、ほめ言葉になっても、けなし言葉や拒否の理由にはならない。

つまり、「人間というものは、そんなに簡単に理屈で割り切れるものではない。
論理的にはお前の言っている事は正しい。けれど、それでは世間は納得しないだろう。
もっと人間の事情や感情を考えろ」という事。
西洋的な「個人」の概念からは出て来ない言葉。''

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世間の5つのルール

・①贈与・互酬の関係。
「お互い様、もちつもたれる、もらったら必ず返す」という関係。
一番分かりやすいのは、お中元やお歳暮、内祝いと呼ばれる祝儀に対するお返し。
相手の地位に合わせた物を送らなくては失礼と言うのは、本人ではなく地位に送っていると言う事。
立場にふさわしい金額の物でなければ「世間」では生きていけない。
欧米人は合理的な理由がない限り、手土産などは持って来ない。

・②長幼の序。
年上か年下か、ということがものすごく大切。
英語では「先輩」「後輩」のニュアンスが絶対に伝えることができない。
brotherやsisterは、兄弟と言う事が判ってもどちらが上かに関心がない。
なぜ年上というだけで尊敬しなくてはならない?と驚かれる。
これを会社用語に言い換えた物が「年功序列

・③共通の時間意識。
「先日はありがとうございました」は共通の過去を生きた確認であり、
「今後ともよろしくお願いします」は、おなじみ未来を生きるという宣言。
同じ時間を生きているとは思えない相手は、同じ「世間」のメンバーとは認められない。
日本人がダラダラ残業しているのは「共通の時間意識」を確認する為
初めから結果の出ている長い会議や打ち合わせや根回しをのぞけば
残業のしない欧米と仕事の量は同じ。
「所与性」自分でつかみ取るものではなく、与えられているもの。(宝くじ当選でタカってくる親戚)

・④差別的で排他的。
自分の「世間」のルールの暗黙のルールを破った時に差別され弾き飛ばされる。
日本で欧米にないいじめが「何もしないいじめ」。
クラス全体が特定の一人を徹底的に無視する。
何もしないことで「世間」を成立させている。
鴻上氏は、当時の「世間」演劇サークル内では、差別され排他的に扱われていたが
劇団の顧客数を増やし「社会」と直接繋がり「世間」を無視した。

・⑤神秘性。
論理的な根拠はない「しきたり」「迷信」「伝統」など。
田舎など、閉じた集団になればなるほど、同じ事が起こる。
外の人から不必要と思われる仕事の手順が増えたりする。

①から③が「世間」の根本原理。④と⑤は、結果の特徴。

''急速に進む不況と日本人の意識の変化によって「世間はかなりのレベルで壊れている」。
伝統的な「世間」の崩壊は、まずはこの「②長幼の序」を否定する人が出始めたと言う事に象徴される。''

''「世間」の何かが欠けてたり、「共通の時間意識」が不安定になっているものが
僕はそれを「流動化」と呼びました。
日本人の自我を支えているのは、自分が所属している「世間」だからです。
「世間」が、価値を決めるのです。’’

’’阿部氏の「世間」の関する仕事の中で、一番感動的なのは、
「世間」ルールを明確にしたことよりも、実は「西洋にも世間はあった」と教えてくれた。
キリスト教と言うシステムがなければ、西洋もまた「世間」が続いていただろうと言う
大胆な研究です。
カトリック教会は、「世間」の存在を許しているとキリスト教だけを信じるようにならないと
「世間」を攻撃しました。
くじ引きのような偶然で人選するような事や神判にて判断するようなものも禁じられた。
おみくじやお祓いなど、もっての外なのです。
世間の最初のルール、「①贈与・互酬の関係」もキリスト教は禁じ、
カトリック教会はそれを徹底しました。''
神の前ではすべての人は、絶対に平等ですから「②長幼の序」を感じる必要もなくなります。
それぞれの個人にとって大切なのは、ひとつ上の先輩ではなく、神だけなのです。''

''1972年飛行機がアンデス山中に不時着して、乗客は極度の餓鬼状態となり、
先に死んだ乗客のしたいを食べて生き延びた言う世界的に有名になった事件がありました。
その時、乗客たちは生き延びるために死体を食べて良いのか、自分はどうするのかと
一人一人、神に問いかけました。全員がキリスト教徒でした。
「これは、聖餐だ。」と、これは「神の思し召し」だと語った人がいたそうです。
そう語る人たちは、食べる事に積極的でした。
日本人ならどうなったでしょうか?
一般的な日本人は個人的に問いかける神は持っていません。
私たちは、神の代わりに「世間」を持っているのです。
たぶん、全体ではなんとなく論議して、でも陰でいろいろ根回しをして
一対一だと本音を話して、「空気」を読んで、みんなが納得したなら食べるでしょう。
 一番年上の人が、「長幼の序」で最初の一口を食べるかも知れません。
逆に、「長幼の序」で、一番若い人間がまず、食べさせられるかもしれません。
「神秘性」に頼って、じゃんけんとかくじ引きで、最初に食べる人間を決めるかもしれません。
一番先に食べるという積極的な犠牲を選んだ後は「贈与・互酬の関係」によって、
その犠牲としての贈り物をムダにはできないので、みんな''食べる''と言う決定に従うでしょう。
 全員が食べたのに、一人だけ食べずに餓死した場合、
その死体は食べたのに死んでしまった人に比べて、暗黙の了解の中で「差別的で排他的」
に扱われるのではないかと言う想像も働きます。’’

''日本では、犯罪を犯した子供の親が自殺したり結婚話が破談になることが珍しくありません。
それを「しょうがない」と思う日本人はいても、欧米人に堂々と、
「子供が罪を犯したら、親は自殺するのが当然である。」と説明出来る日本人はいないと思います。
「世間」が責めるから生きていけない、と言う言い方は出来ても、
どうして「世間」が責めるのかあなたは説明出来るでしょうか。
また、逮捕された瞬間から、すぐに「世間」は犯罪者扱いをします。
裁判というものがあって、そこで無罪になるかもしれない、という可能性をまったく捨てて、
警察がやってきて、隣人が逮捕された、いうことを聴いた瞬間から
その隣家は「世間」から弾き飛ばされます。
付き合ってはいけない対象となるのです。
判決も出ていない前に「ああ、悪い人なんだ」と思ってしまうのは、
私たちが神秘的で呪術的な「世間」に生きている証拠です。''

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自分の経験からの体験を一つ
ここで最近の親との会話を振り帰って見る。
約束で決められた家に入れている家賃を、父親の一言で反故にされた際の母親とのやり取りだ。
自分は「世間」が嫌いなので当然反発し、更に「世間」が嫌いになる。
そういったやり取りを数10回、数100回と繰り返す内に極論を言うようになった。
具体的には、「私は親の言うことに反抗はしなかった。」「稼いで来た給料は親にすべて渡してきた」
などと抜かすので、この様にやり取りをする。
「宮本さんのお宅では、息子さんはこれだけ金額を入れている。」
「じゃあ、明日から給料全額渡してやろうか。明日からどうなっても知らんぞ」
「そんな事は言っていない」
「言っているじゃないか!どう違うんだ。同じ事だろ」と

これは「③共通の時間意識」である。

我が家では、成人しても子供は子供と言う論理を親は語る。
当然、私が年を取る度に、毒親の多干渉に頭を悩ませ話をする事すら拒むようになるが
共通の時間意識の為に、子供は年を取っても子供と言う態度を取り
私が年を取る度にその考え方の違いが大きくなり反発をする。
子供の頃は、反発しなかったと思っている。
その事を話すたび「昔」と「今」は変った、或いは違うのね。と言い分を毎回繰り返すだけなのである。

この様子なら犯罪をしたら間違いなく、親は首を釣るだろう。
私としてはなぜ家族が犯罪を犯したら、自分が責任を取らなければならないのか
同じグループだからと言って、他人の失敗を所与され被らないといけないのかと考える。
このはっきり記載したこの考え方が、間違っていると考える人はより世間的な方で、
世間をお騒がせしたら、謝らなくてはならないと考えるのだろう。

共通の時間意識は、 大昔より「最近の若い者は」と言われていた辺り。
お察し下さいと言う感じである。

更に、集会などで家族の悩みを打ち明けようにも「家族の恥を晒すな」と言う。
これは他人に言わなければ判らない事である。
家族は信仰している宗教を持っているが、親と言う個人を支えている物は信仰している宗教ではなく。
「世間」と言う内なる神が支えていると言う事で有り、とんだ笑い話なのである。
しかし、糠に釘なので、絶対にこの話はしない。
毒親に関してはどうしようもないので、家を出るしかないのだ。

友人にこの話をして判った事が一つある。
「世間」と「空気」の話をするにつれ、興味のない人間には本を読めとは言えないので
二人だけの花見の席で内容を抜粋しつつ内容を口頭で話をした。

正しいとは思うが、教科書を読んでいる様で感想が浮かばない言った趣旨の返事が帰ってきた。
彼は、生理的に受け付けないのだろう。
たぶん 反論は、したかったのである。

相手が世間の中で生きているか手っ取り早い判別が出来るキラークエスチョンを思いついたので使って見た。
具体的には、ホリエモンって「好き?」「嫌い?」と聞いて見た。
「好きか?」「嫌いか?」と、聴き方がミソである。
ホリエモンと言う人物は、判りやすく「世間」から弾かれて「社会」で生きている人で
それを二元論で聞いて見ると言うのは、有効な判別方法と考えた。
有名人かつ「同士」はいるが「友達」がいない。
目標や能力に「人格」は関係ないと言っている人物で
「世間」から弾かれているが、故に言いたい放題が出来ると言う、例にしやすい適任者である。

彼は、「嫌い」と答えた。
特に堀江氏に着いていけない人を切り捨てる所が嫌いなのだそうだ。
「どうでも良い」「興味がない」「尊敬はしている」「人格は良くはないが、評価は出来る」など
そういった言葉は彼からは出てこなかった。

そこで悟り、話を終わらせた。
故に友人ではあるが、彼とは宗教が違うと考えた。
お前は間違っていると相手に言うのは、宗教を誤っているので改宗しろと言っているような物であり
日本人自体が「個人」を支える為に、信仰する「世間」と言う神を相手に
友人一人だけの為に、改宗を迫るのは少々リスクである。
これを語る相手は考えなければいけないと感じた。

この本と出合った事により、必ずしも「空気を読む」必要はないんだと前に進むことが出来たが、
同時に「世間」を目の当たりにすると別の怒りや蟠りが出来てしまった。

パナマ文章の問題だって、電通がトップだから報道される訳ないという声があった。
タックスヘイブンを使用している企業は
「世間」のルールを犯した訳ではないので、「世間」に守られているだけと考えている。

無神論者、つまり神を信じていないと言う人間こそ
宗教は関係なく神社仏閣教会などでお参りをして、他国の宗教でお祭り騒ぎをする。
つまり、特定の神を信じていないと言う人は、多神教の使途で
「世間」により「個人」を支えている人と考える。

私は幼い頃、誰に言われる訳でもないのに鳥居をくぐってはいけないと思っていた事がある。
誤解がない様に言うと、家族が信仰している宗教は、
キリスト教ムスリムではないので、そもそもが多神教ではあるのだ。

現状は、「世間」の打破には時間を掛けて変っていくのを期待する他ないのか
「教育」と「下の世代」に期待する他ないのかな?と考えている。

ネット上の炎上も叩くことにより「世間」を作り上げているんだそーだ。
「世間」と言う神は碌な神ではない。

私からは、一神教も碌な物ではないが、多神教も大概にせーよ!と一言である。